所蔵史料紹介

A. 東京薬科大学の歴史

創立者藤田正方先生と本学の歩み

藤田家世系(一巻)

本学の創立者である藤田正方は、1846(弘化3)年越前国丸岡谷町(現在の福井県北部)で旧丸岡藩の範医 藤田正中の長男として生まれた。本家系図では、天武天皇舎人親王第9代子孫 清原吉澄を祖としている。
正方の祖父の藤田正大・天洋は漢方医学・オランダ医学を修め、丸岡藩主の御側医師を務めた人物で同藩の蘭学医術開祖として後進を育成した。

藤田 正方編集 「東京府病院薬局法」

1880(明治13)年
本書の構成は、凡例において製剤の法を記し、主としてドイツ製剤より、エキス、煎、浸、乳、チンキ剤について述べ、ついで極量表をドイツ局方から引用し、最後に度量衝換表を掲げている。今日の薬局方のような薬物単味の品質規格集を中心としたものでなく、処方集・製剤手引き集である。

藤田 蒲三郎氏 卒業証書

1884(明治17)年
藤田蒲三郎氏の東京薬学校第一回卒業証書
藤田正方校長実弟、後に私立薬学校(現在の東京薬科大学)監事となる

藤田 正方先生 墓碑銘

本学の創立者藤田正方先生、およびその弟の董平、蒲三郎両先生の墓は、東京都台東区の谷中霊園(乙13号)にある。墓石は正面に「藤田正方之墓」、左側面に「藤田董平之墓」、右側面に「藤田蒲三郎之墓」と刻され、背面に墓碑銘がある。展示品は背面の墓碑銘の拓本で、生前の偉業が記されている。

下山 順一郎手製の生薬標本(明治時代)

明治21(1888)年来、明治が終わるまで東薬の校長を務めた下山順一郎(1853〜1912)は、近代薬学の開祖である。薬が化学合成物となる前は、天然薬物である生薬が主流であり、下山は生薬学を我が国に導入した第一人者であった。

展示品は下山が自ら作製した100年以上前の生薬標本の実物である。ラベルに印刷された欧文は「Tokio Yakugakko」「Pharmceut.Laboratorium.」。生薬名は下山自身が毛筆と墨を用い、今とは逆に右から左へ「青蓼」「和小楝子」「柳梅」「白槿花」「桑産皮」「唐枳実」「加嘉皮」などと書かれている。

丹波 敬三校長の墨跡

東京薬学専門学校の初代校長に就任した丹波敬三は、平安時代から続く名門医家の血統。「淡斎」と号し、書をよくした。写真上段の墨書は、「勝怠勝欲」。怠に勝ち、欲に勝つ。「怠惰な気持を克服し、私欲を抑制しなければ、何事も成就できない」という意味。出典は中国古代の『荀子』『大載礼記』などの古典の文章に由来し、後に四字熟語としてしばしば用いられるようになった戒めの成句である。関防印(書き出し右上に押す印)は「淡斎」で、丹波敬三の号(ペンネーム)。落款印(終りの二印)は「正三位勲一等薬学博士」(陰刻)と「丹波敬三」(陽刻)。丹波敬三は薬学博士で勲一等に叙せられた最初の人物で、この落款印にはその自負が込められている。写真下段の墨書は、中国の古典『大学』を出典とする「心広ければ体胖ゆ」の成語が書かれ、「七十三叟 / 淡斎書」の署名と「淡斎」「正三位勲一等薬学博士」「丹波敬三」の印がある。

担任教科目及び給与一覧

東京薬学専門学校

北里善次郎氏欠勤届

東京薬学専門学校
1924(大正13)年
講師であった北里善次郎氏が東京薬学専門学校 丹波敬三学校長宛に提出した欠勤届け
(北里柴三郎氏の次男、後に北里研究所所長も務める)

B. 卒業生フロンティア

本学は我が国初の私立薬剤師養成機関、薬学・生命科学教育機関としてこれまでに4万人にのぼる卒業生を社会に輩出しており、その多くが社会の様々な分野でフロンティアとして活躍しています。

多様な社会で活躍した卒業生として、「国際的に活躍した先輩たち」や「薬剤師の政治家として我が国の医薬分業や環境行政、薬剤師の地位向上に貢献した先輩たち」薬学、薬業へ貢献した卒業生として、「患者のために必要な医療薬学の基礎を切り開いた病院薬剤師たち」や「『実学本位』の薬学校が育てた薬剤師のパイオニアたち」、「社会が求める薬を作ってきた東薬の先輩たち」等の一端を展示紹介しています。

C. 薬学・生命科学

おきぐすり(売薬) 大正~昭和初期

「おきぐすり」の正式な名称は「配置販売業」。以前は「売薬」といわれていたが、昭和18年の薬事法で「売薬」という言葉が廃止されたため、今日では配置販売業と呼ばれている。

薬研

漢方薬等を調整するとき、薬剤を細粉にひくために用いる器具。「くすりおろし」ともいう。小舟型の器具の底に窪みがあり、そこに薬効のある草、根、木などの薬剤を入れ、車輪の軸の両端に両手を置き、これを前後に往復させることによって、薬剤を押し砕いて細粉にする。薬研を使用すると、その器具の特性から粉末の粒度が均一になる。

石英分光写真機(株)理化学研究所

1940年代後半、紫外部の波長領域をカバーできる水晶分光写真機が開発されていて分光分析の分野で大きな実績をあげていた。
島津製作所創業記念資料館では、水晶分光写真機QF-60が展示されているが、それと同等のものと思われる。

顕微鏡

カメラで有名なライカ社の前身エルンスト・ライツ(Ernst Leitz)社製の顕微鏡
1900(明治33)年~1910(明治43)年頃のもの

ミハエリス式簡易水素イオン濃度測定装置

ミハエリス「Leonor Michaelis」の発明による水素イオン濃度の測定器
「水素イオン濃度測定法(水谷通治 著、1926(大正15)年発行)」に本装置に似た絵が記載されている。
1933(昭和8)年東京薬学専門学校女子部文部大臣指定認可祝賀会での実験室公開で、分析化学室にて本装置が展示された。

我が国初の生命科学部の誕生

1994(平成6)年に我が国で初めて誕生した生命科学部に関する史料と先駆者の紹介。

史料館パンフレット

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